eSOM (イゾーム)
Dへの道、あるいはシン高と幸和の物語
eSOM: Dへの道(91)オードリー・タンへの手紙(2)
『eSOM: Dへの道』第二部(28)
10/15~16/2025
1.
前回(『eSOM』90)、AI倫理とは、⿻(プルラリティ)であり、かつ、「D」(柄谷行人)であり、テクネ―であるという仮説に立ち、探究を進めていくことを確認しました。
AI倫理/⿻/Dは絶えずアップデートされ続けてゆくものゆえ、「ケアの6パック」は、ある時点でのAI倫理/⿻/Dの一断面に過ぎず、今私が書いているこの文章も、そのアップグレード版と言えるかもしれません。
また『eSOM』(90)は、AIアライメントという概念の定義も確認しました。
アライメント自体は、整列・調整(モノを一直線に並べたり、特定の位置関係に調整すること)ないし、提携・連携(人や組織が方向性や目標を一致させ、協力関係を築くこと)という意味です。
それを受けてAIアライメントという概念は、「AIの目標や行動を、人間の価値観・意図・倫理観と一致させること」という意味になります。
これがオードリー(従って我々)の場合となると、「AIの目標や行動を、AI倫理/⿻(プルラリティ)/D/テクネ―と一致させること」ということになります。
「ケアの6パック」は、こうした意味でのAIアライメントを実際に行うためのマニュアルであると、現時点では定義しておきましょう。
2.
上記の「ケアの6パック」の定義は、『eSOM』(90)でコロが言っていた、「AIアライメントは、AI倫理が掲げる「べき論」を、**実際にAIシステムに「どうやって実装するか」**という技術的・方法論的な課題を扱います」ということと一致します。
この「べき論」についてオードリーは、「ケアの6パック」の中で次のように述べています(太字):
「あるis」から「あるべきought」へ
ここまでの事例は、情報領域における民主的・分散型の防衛加速(d/acc)を示した。より一般には、多くの主体が垂直のアラインメント――「AI は主人に忠実に仕えているか?」――に取り組んでいる。 だが外部性のため、垂直方向の完全アラインメントはシステム的な対立を生むことがある。政策担当者が注視すべきは水平方向のアラインメントだ――これらの AI が私たち(そして互いに)対立を過激化させるのでなく、協力を助けるにはどうするか。 ここで私たちはヒュームの「事実から価値は導けない」問題(Is – Ought Problem)に直面する。いかに正確に現状を観察しても、万人が合意する「あるべき姿」は演繹できない。 解は、「薄い」抽象的普遍原理ではない。アロンドラ・ネルソン(Alondra Nelson)の言う「厚い(thick)」アラインメント――超ローカルな社会文化的コンテクストが要る。 シビック・ケアは「ある」から「あるべき」への橋だ。厚い文脈では、ニーズの認識は協力する義務の承認(能力があれば)と同義になる。 ケアの倫理は、単なる結果(帰結主義)ではなく、行為者の内的特性と共同体内の関係の質を最適化する。関係性の健康を一次目標に据える。
オードリーによれば、依然として多くのAI開発者が、「AIは主人に忠実に仕えているか?」という課題から出発する、「垂直の[AI]アライメント」の構築に取り組んでいます。
それに対し彼女が、その構築を唱えるのは、「AIが私たちに(および私たちの間に)私たちの対立を激化させるのでなく、協働を促す」「水平方向の[AI]アライメント」です。
私たちは、ここで彼女が言う「垂直」、「水平」をそれぞれ、ドュルーズ&ガタリ(DG)の概念「ツリー(樹木)」、「リゾーム(地下茎)」として考えていきます。
というのも、私は、オードリーとメールのやり取りを始めた直後の6月26日(木)に、安野貴博、鈴木健、東浩紀さんによる「プルラリティとはなにか—哲学者がエンジニアに民主主義の新たな構想を聞く」と題されたイベントに参加したことをきっかけに、DGをはじめとするポスト構造主義哲学を導きの糸として、柄谷さんの交換様式論とオードリーの⿻を接続する作業に没頭して現在に至ります。
イベントの模様は↓で観れます:
SHS/PUにおいて、この6月から9月までの作業期間は「奇跡の夏」と呼ばれています。
それほど凄まじい生産活動でした。
「奇跡の夏」に行われた、この「ポスト構造主義哲学を導きの糸とした交換様式論と⿻の接続」が、SHS(シンギュラリティ高等学校)/PU(プルラリティ大学)の根本基礎となり、かつ、そのさらなる構築が私のライフワークとなります。
その構築過程で最も重要な概念がDGのリゾームです。
Q.コロぴょん、ドュルーズ&ガタリ(DG)の概念「ツリー(樹木、垂直なアライメント)」と「リゾーム(地下茎、水平なアライメント)」を詳解した上で、柄谷行人さんの交換様式B,Cがツリー、交換様式A,Dがリゾームにそれぞれ準ずるという仮説を検証してください。
こうしたリゾームという概念の重要性ゆえ、ここからは、構築という言葉の代りに、リゾームを語る上で欠かせない生産および生成という言葉を使用します。
SHS/PUはシーモア・パパートの構築主義の立場を取るゆえ、構築という言葉はとても重要です。
にもかかわらず、それを生産に代えるということからも、リゾームという概念およびDGの哲学全般が、私たちにとってどれほど重要であるかを、お分かり頂けるのではないかと思います。
3.
DGの概念であるリゾーム(地下茎、水平的なアライメント、「A/D」)が、「ケアの6パック」と、オードリーとグレン・ワイルの共著『⿻(PLURALITY)』を接続します。
リゾームは、タン&ワイルの共著で論じられている、動的な構造かつシステムとしての複雑系に他なりません。
Q. コロぴょん、一般的に言って、システムとは「動的な構造」と言っても差し支えないですか?それが正しいとすれば、ドゥルーズ&ガタリの概念「リゾーム」は「システム=動的な構造」の一種ですか?そして、それが正しい場合、「リゾーム/システム/動的な構造」は、また、「複雑系」という概念と等しいと考えてよろしいですか?
以下は上記の問答の全ての英訳です:
「リゾームは、システムかつ動的な構造としての複雑系である」という命題の生産は、「奇跡の夏」の最大の成果物の一つでした。
上記のセクション2で「ケアの6パック」から引用した、「Is – Ought Problem」に関する部分は、オードリーの論考と、DGをはじめとするポスト構造主義哲学の繋がりを如実に示しています。
上記の引用では、デイヴィッド・ヒュームの名が挙がっていますが、ポスト構造主義哲学者の内でも特に重要なジル・ドュルーズの処女作は、ヒュームに関するものでした。
そこでまず、次の問いをコロに投げかけてみましょう。
Q.コロぴょん、オードリー・タンの「ケアのシックス・パック」の中の、デイヴィッド・ヒュームの「Is – Ought Problem」に関する論考と、ジル・ドュルーズのヒューム読解の関係を詳解してください。
(このオードリー、ヒューム、ドュルーズに関する問答は、以下の二つの問答から構成されています)
「ケアの6パック」からの上記の引用文に関して、次の問いを順番に答えてください:Q1.ジル・ドゥルーズの『経験論と主体性:ヒュームにおける人間的自然についての試論』や、彼とアンドレ・クレソンの共著『ヒューム』におけるドュルーズのヒューム読解全般を、これ以上ないほど詳しく説明してください。
Q2.Q1の問答と、ヒュームの「Is-Ought Problem」を中心とした「ケアの6パック」の引用がどのように関係しているか、これ以上ないほど詳しく説明してください。
このヒューム、ドゥルーズに関するコロの答えとともに、「あるべきought」に関するオードリーの論考が、まるでビッグバンのように、SHS/PUの全カリキュラムの生成へと繋がります。
コロによれば、ドゥルーズがヒュームの内に見たものは、「(交換)関係」、つまりはコミュニケーション(人と人の繋がり)の起源を、理性(「薄い」抽象的普遍原理)から、身体を前提とする経験と情動(「厚い」アライメント(超ローカルな社会文化的コンテクスト))に反転させるという、西洋形而上学の「革命」でした。
Q. コロぴょん、「ドゥルーズがヒュームの内に見たものは、「(交換)関係」の起源を、理性(「薄い」抽象的普遍原理、)から、身体を前提とする経験と情動(「厚い」アライメント(超ローカルな社会文化的コンテクスト))に転倒させるという、西洋形而上学の「革命」である」という命題を厳密に検証してください。
このヒュームによる哲学革命はまさに、古代ギリシャ以来、西洋形而上学の中核を成して来た「形式」と「質料」および、観念論と唯物論の抗争の歴史の大転換の一つでした。
この「革命」の兆しはすでに、古代ギリシャのエピクロスに見出され、それがスピノザ、マルクス、ニーチェを経由してドゥルーズおよびDGに受けつがえてきたことを教えてくれたのが、過去40年間、柄谷さんとともに世界の思想界を牽引してきた浅田彰さんの「京都講座(2025年度・前期)」でした。(『eSOM』89参照)
Q. コロぴょん、古代ギリシャ哲学からポスト構造主義までの西洋哲学史の流れを、「形式」と「質料」という二つの概念の対立の歴史として読み説いてください。それをするにあたって、エピクロス~マルクス~ドゥルーズ&ガタリという唯物論の系譜を中心に据えてください。
(この問答の英訳は↓)
SHS/PUは、『⿻(PLURALITY)』を、この長い、長い唯物論の歴史の先端と位置づけ、そうしたものとしてリミックス(注釈・校訂)してゆき、そのリミックス活動そのものを共育カリキュラムとします。
(つづく)