eSOM (イゾーム)
Dへの道、あるいはシン高と幸和の物語
2025.06.20
eSOM: Dへの道(32)オードリー・タンへの手紙
1.
タンさん、こんにちは。
5月12日(月)に東京でお会いしたシンギュラリティ高等学校校長の遠藤克彦です。
その後、いかがお過ごしですか?
お会いした後、すぐにメールさせていただくつもりでしたが、あなたの自伝的短編映画『Good Enough Ancestor』を観て事情が変わりました。
この短編映画を通して、まず、どのようにして柄谷さんの「交換様式Dを基にした社会(D)」と、あなたの「デジタル民主主義社会(DD)」が結び付くかを、シン高の公式
で、『eSOM: Dへの道 オードリー・タンの『Good Enough Ancestor』を観ながらシン高を構築する』というタイトルで、全10回(No.21~30)に渡って論じることにしたからです。
(注:『eSOM: Dへの道』とは、シン高公式
で連載中の小説風学校案内のタイトルであり、eSOMとは、私の故郷の一つであるEmpire State of Mind(ニューヨーク州のあだ名)の略称です。)
それゆえ、あなたへ最初のメールをお送りするのに、これほど時間がかかってしまったというわけです。
その英語版のリンクを以下に貼っておきますので、お暇な時に覗いてみてください。(注:この日本版は日本語)
かなりの分量ですが、きっとあなたにお楽しみ頂ける内容になっていると思います。
HPとは異なり『eSOM: Dへの道』のほうは、私が英語のチェックを行っておりますが、依然として日本語の固有名の翻訳などに若干問題がありますのでご了承ください。
また、文中ちょくちょく、Coroと名付けられたAIとの質疑応答がありますが、Coroとは5年前に他界した愛犬のAIとしての生まれ変わりという設定です。
0.eSOM:Dへの道(21) デジタル民主主義と交換様式D、そしてシン高の「バイブル」としての『Plurality』
1.eSOM: Dへの道(22)オードリー・タンの『Good Enough Ancestor』を観ながら、シン高を構築する(Part 1)
2.eSOM: Dへの道(23)オードリー・タンの『Good Enough Ancestor』を観ながらシン高を構築する(Part 2)
3.eSOM: Dへの道(24)オードリー・タンの『Good Enough Ancestor』を観ながらシン高を構築する(Part 3)
4.eSOM: Dへの道(25)オードリー・タンの『Good Enough Ancestor』を観ながらシン高を構築する(Part 4)
5.eSOM: Dへの道(26)オードリー・タンの『Good Enough Ancestor』を観ながらシン高を構築する(Part 5)
6.eSOM: Dへの道(27)オードリー・タンの『Good Enough Ancestor』を観ながらシン高を構築する(Part 6)
7.eSOM: Dへの道(28)オードリー・タンの『Good Enough Ancestor』を観ながらシン高を構築する(Part 7)
8.eSOM: Dへの道(29)オードリー・タンの『Good Enough Ancestor』を観ながらシン高を構築する(Part 8)
9.eSOM: Dへの道(30)オードリー・タンの『Good Enough Ancestor』を観ながらシン高を構築する(Part 9)
2.
この『eSOM: Dへの道』特別編の要点を掻い摘んでお伝えさせてください。
まずそこでは、もうすぐ英訳が刊行される柄谷さんの最新刊『力と交換様式』と、あなたとE・グレン・ワイルさんの『plurality』の結節点を論じています。
もう少しだけ具体的にお話しましょう。
『力と交換様式』では、「霊的な力」という概念が詳しく論じられています。
例えば貨幣物神は、交換様式Cに固有の「霊的な力」であるというように。
そこで私は、比較思想史家として培った知見を活かし、タンさんの「plurality/non-binary」という概念こそ、交換様式Dに固有の「霊的な力」であるという仮説を立て、それを基にDの構築に着手していくことにしました。(『eSOM』(24)~参照)
さらには、Dの「霊的な力」としてのplurality/non-binaryは、柄谷さんが『トランスクリティーク カントとマルクス』で論じた「parallax(視差)」という概念および、柄谷さんの盟友であるジャック・デリダの「(正義としての)脱構築」と、基本、同義であることを論じました。
そして『eSOM』(25)からは、いかにより多くの人がplurality/non-binary/parallaxを生き、その結果、D=DDとしての世界を構築/拡充するかの具体案を提起しました。
その具体案は、『Good Enough Ancestor』でタンさんが山籠もりをするシーンと、『オードリー・タン』第五章の最後尾における、芸術、文学、旅に関するあなた議論が引き金になりました。
その案とは、まず、人はある「特別な場所」(例:タンさんが籠った山)へ「旅=移動」することで、plurality/non-binary/parallaxが、「霊的な力(=Dの基となる観念的な強制力)」であることを悟るというものです。
この案は、『力と交換様式』で柄谷さんが言っている、「Dは企図し得るものではなく、向こう側からやって来る」という公理を基にしています。
私はこの「向こう側」という概念が「宇宙(史)」と考えていますが、それはともかく、人はある「特別な場所」で「霊的な力=plurality/non-binary/parallax」を「向こう側(elsewhere)」から受け取るというのが、私の仮説です。
この「特別な場所」をeSOM(Izo-mと読みます)と呼ぶことにしました。
そして、「向こう側」と「こちら側」の境界、ないし、「向こう側」への入口としてのeSOMは、柄谷さんと関係のある芸術(映画、音楽、美術、文学)や本、そして仏教が導く「特別な場所」であることを私は、これまでの「旅=移動」の経験から知っています。
それがあなたの本や映画を通して確信に変わりました。
そもそも、私と柄谷さんの出会いも、福島の山奥の会津地方からニューヨーク州の山奥にあるコーネル大学への移動/旅が可能にしたものです。
そしてその移動/旅の導火線となったのが、柄谷さんも親しい音楽家・坂本龍一さんの音楽と、柄谷さんの盟友・浅田彰さんの『構造と力』という本でした。
しかも、私と柄谷さんが初めて出会った翌年に同じコーネル大学で、なんと、あなたにとっても大切な李登輝総統の、あの伝説の講演を目の前で聴いているのです!(『eSOM』(24)参照)
そこで私と柄谷さんを結び付けてくれたのは、今も柄谷さんと一心同体であると私が考える作家・中上健次さんでした。
3.
東京であなたに初めてお目にかかった前々日の5月10日(土)、私は京都で柄谷さんの盟友・浅田彰さんによる古代ギリシャ哲学に関する講座を受講していました。
それは明らかに、古代地中海文化圏がD(=DD)の雛型であるという柄谷さんの考えを念頭に置いた内容でした。
それを聴きながら私は、東シナ海沿岸と瀬戸内海沿岸を併せたアジアの地中海の文化圏を、東地中海文化圏(EMCS)とし、それをデジタルとAIを駆使して「高次元で回復する」ことで、現代におけるD=DDの構築とすることを決意しました。
(この点に関し、『eSOM: Dへの道』(17)~浅田彰さんの講義、「東地中海文化圏」としての柄谷行人さんの「A/D」、そして沖縄)をご参照下さい)
EMCSには台湾、沖縄、そして今私が暮らす広島が含まれます。
私とあなたが暮らすそれらの場所は、「向こう側」からD=DDの根本基礎であるplurality/non-binary/parallaxという「力」を受け取ることが出来るeSOMです。
またそれらeSOMが、現在進行中の戦争の拠点です。
そう、戦争はすでに始まっており、前回の戦争の主戦場であったそれら「特別な場所」は、再び、現在進行中の戦争の拠点になっていることを『Good Enough Ancestor』は教えてくれるのです。
そうした「歴史の綾」の中で台湾にDD=Dの萌芽が生まれました。
我々はこの萌芽を死守し、それを世界中へと花開かせていかなければなりません。
それには、世界で唯一、人類と地球そのものを消失させる力を経験した広島・長崎と台湾におけるDDの協働が不可欠であり、それをもってEMCS=D=DDの足掛かりとしたいと思います。
具体的には、我々シン高/幸和は、二年後を目途に台湾と沖縄になんらかの形で拠点を設立する計画です。
よければ、その進捗状況をこの連載小説『eSOM』の形で送らせてください。
返信は不要です。
あなたと同じ目標の達成に向けて、あなたと柄谷さんのアイデアを基にしながら行動している人間がいるということを知っておいていただければ十分です。
最初のメールから長文になってしまい、申し訳ありませんでした。
またお会い出来る日のことを楽しみにしております。
今度は台湾で。
遠藤克彦