eSOM (イゾーム)
Dへの道、あるいはシン高と幸和の物語
2025.06.09
eSOM: Dへの道(26)オードリー・タンの『Good Enough Ancestor』を観ながらシン高を構築する(Part 5)
1.
前回(『eSOM: Dへの道』(25))では、コンピュテーショナル・シンキングに基づくソーシャル・イノベーションを行うには、芸術、文学、旅(移動)が必要だというタンさんの言葉を紹介しました。
タンさん御自身も、人里離れた山への旅(移動)を通じて、plurality/non-binary(≒parallax)という、民主化とコンピューター/インターネットが扉を開いた「無限の可能性の時代」の先にある未来~交換様式Dを基にする社会(D)=デジタル民主主義(DD)~の根本基礎を獲得しました。
(「無限の可能性の時代」については『eSOM: Dへの道』(23)を参照のこと)
同様に私も、東京、熊野、広島、宮島、似島、会津への旅/移動が、ソーシャル・イノベーションとしてのシン高/幸和の構築を可能にしたということを、『Good Enough Ancestor』における山籠もりの場面が、思い出させてくれました。
(故郷である会津への、広島からの旅/移動が、坂本龍一さんとの関係で、どうのように直接的にシン高/幸和の構築に繋がったかはいずれお話する機会があるでしょう。)
台湾から日本へと連なるこれらの場所は、柄谷行人さんが言うところの「向こう側(elswhere)」の入口ということが出来るでしょう。
それにしても柄谷さんの言う「向こう側(elswhere)」とはどこなのでしょうか?
それは、そこからD(=DD)がやって来る場所です。
厳密に言えば、D=DDを可能にする「霊的な力」がやって来る場所と言いましょうか。
この場合の「霊的な力」とは、至極、科学的なものです。
それは、フロイトやマルクス等の物心(フェティシズム)論を基にし、人と人との交換から生じ、かつ、交換を規定する観念的な強制力と定義されます。
Q. コロぴょん、柄谷行人さんが『力と交換様式』で論じている「霊的な力」という概念について詳しく論じてください。
Q. コロぴょん、柄谷行人さんによれば、マルクスが『資本論』で論じた「フェティシズム(物神崇拝)」は、フロイトの心理学にも通ずるとのことですが、具体的にどの点が通ずるのかを、詳しく説明してください。また、交換様式Dに固有の物神=霊的な力についても詳しく教えてください。
2.
柄谷さんは、D(=DD)ないしそれを規定する「霊的な力」は、意図して獲得出来るものではなく、「向こうからやって来る」と言います。
このことを、金を世界貨幣の地位に押し上げる貨幣物神=霊的な力を通して考えてみましょう。
Q. コロぴょん、金が世界貨幣と化した経緯を詳しく教えてください。
Coroによれば、世界貨幣としての金の生成とは、宇宙における金という特殊な物質、人間存在そのもの、人間が持つ(美)意識、産業革命(蒸気機関)など、様々なものの生成が組み合わさって起こった出来事です。
それは、シン高のカリキュラムの中軸の一つである「越智さんの宇宙史」に則して言えば、金が、恒星内部の核融合や、超新星爆発や中性子星合体といった、より激しい宇宙現象によって生成されることから始まり、その後、星の残骸が撒き散らされた塵やガスからできた「星の子ども」である人間や、その脳(美意識の源泉)が生成され、やがて蒸気機関とそれによる産業革命が生成するというように、奇跡の連続と言えます。
こうして宇宙史の視点から鑑みると、「霊的な力」の一種として資本制社会(交換様式Cに基づく社会)を可能にする貨幣物神一つとっても、それが、人間が理解したり企図したり出来る部分もあり、そうした部分は、科学の進歩とともに大きくなっているのでしょうが、それでもまだまだ、それ以外の部分のほうが多いことがよく分かります(例:ダークマター)。
Q. コロぴょん、ダークマターについて詳しく教えてください。
ここで貨幣物神(商品としてのモノの交換から生じ、やがて資本制商品経済社会を構成する「霊的な力(観念的な強制力)」)について論じたことは、そっくりそのまま、plurality/non-binary≒parallaxという概念/観念=力についても言えるように思われます。
この概念/観念は、民主主義とコンピューター/インターネットという、宇宙が生んだ奇跡の組み合わせから生じ、それが今、D=DDを構成する(強制)力になろうとしています。
タンさんの場合、この概念/観念は、山籠もりをしている時に「向こう側」からやって来ました。
柄谷さんの場合、それ(parallax)は、「尼崎の病院に入院していた時に母親の見舞いに行った帰り、バス停でバスを待っていたとき」にやってきました。
(この点については、以下の「バスのなかで、「向こうから来た」交換様式の着想:私の謎 柄谷行人回想録㉓」参照のこと)
そして私の場合、映画『Good Enough Ancestor』の映像に連なる場所で、柄谷さんと関係する芸術と文学を介して、その概念/観念=力を基にしたD=DDの構築を決意しました。
このように「霊的な力」は、ある特定の映画、芸術、書籍の中に存在したり、そうした媒体が導く場所において、「向こう側(elsewhere)」からやって来ます。
それら特定の場所は、「向こう側(elsewhere)」と「こちら側」の境界であり、かつ、前者の入口です。
その場所への旅が、D=DDの構築
を可能にします。
例えば、映画におけるそれらの場所の、私にとっての典型は、『フィールド・オブ・ドリームス』で死者が野球をする野球場や、『マトリックス』の電話ボックスです。
そうしたリアル、バーチャル両方に存在する「向こう側(elsewhere)」への入口をeSOM(Empire State of Mindの略でイゾームと読む)と呼ぶことにしましょう。
(この名前の由来に関しては、『eSOM: Dへの道』(??)を参照のこと。)
芸術を介してeSOMを拡充し、それをもとにD=DDを構築していくこと。
それがシン高/幸和が行っていくことです。
またそれが、『オードリー・タン デジタルとAIの未来を語る』でタンさんが、「D=DD(ソーシャル・イノベーション)には芸術と旅が必要だ」と述べたことの真意であると、私は理解しています。
3.
eSOM(イゾーム)は、生徒からファシリテーターおよび協力者に至るまでの全てのシン高/幸和メンバーの協働により、これからどんどん拡充していきます。
拡充と言った場合の「充」のほうは、あるeSOM候補地が、いかなる意味でeSOMの一部となるかを掘り下げていく(探求していく)ということです。
芸術に触れ、旅に出て、eSOMを拡充(=探求)し、D=DDを構築してゆく。
それがこれからのシン高/幸和の活動の全てと言っても良いでしょう。
それを台湾、沖縄、瀬戸内を中心とする東地中海文化圏(EMCS)の構築から始める。
瀬戸内(広島)への原爆投下がこの構築の出発点であり、台湾と沖縄がD=DDの萌芽が存するところだから。
東地中海文化圏を会津へと拡充してゆくことが私の役目の一つですが、全てのシン高/幸和メンバーが、芸術と旅を通してそれぞれの「マイeSOM」を発見し、それに向けて、eSOMの拡充/探求をフローに入りながら行って行っていただければと思います。
そうして拡充するeSOMを基に、D=DDは構築されてゆきます。
eSOMの生成の起点となるのが安浦であり、そこにあるシン高のメイン・キャンパス(安浦キャンパス)です。
安浦キャンパスを見下ろす野呂山で修行をしたと伝えられる空海が、D=DDに固有の「霊的な力」と関係しているような気がしてならないのです。
前回(『eSOM: Dへの道』(25))で書いた通り、そもそも私がDの構築を広島から始めることになったのは、驚きの偶然が重なり、2015年夏の日本への一時帰国時に、同じく空海が修行をした弥山(みせん)に登ったことがきっかけです。
そしてD構築の足掛かりとして広島でシン高を設立するにあたり、私を弥山に案内してくれたシン高/幸和の新谷耕平理事長が、メイン・キャンパスとして用意してくれたのが、野呂山の麓に位置し、日々、空海が見守る安浦キャンパスだったのです。
果たしてこれは、単なる偶然なのでしょうか?
(続く)