シンギュラリティ高等学校 SHINGULARITY HIGH School

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Dへの道、あるいはシン高と幸和の物語

2025.05.09
(小説)「Xへの道」、あるいはシン高物語(24):柄谷行人への手紙、災害ボランティア、そして中上健次

1.
柄谷さん、
お久しぶりです。
お元気ですか。
このメールは「(小説)Xへの道、あるいはシン高物語」(24)を兼ねています。
24回を数えるこの連載小説(シン高の公式Xで連載中)の中でもこの24回目は、柄谷さんとも関係する特別なものになりそうなので、柄谷さんへの手紙という形で書くことにしました。
最後にお送りした「小説」は、「(小説)Xへの道、あるいはシン高物語」(12):8.12.2024震災遺構大川小学校「おかえりプロジェクト」)だったはずです。
台風のせいで、大川に足を運んだのは終戦記念日で、その後、広島に戻る途中、8月19日にお二人に会いに行きました。
その際に、「ボランティア活動は交換様式A」と言ったことを覚えています。
すでにその頃には、石巻での「チーム大川 未来を拓くネットワーク」との出会いを経て、「ボランティア活動は交換様式A」という考えが自分の中に定着していたのでしょう。
この考えは、「小説12」に登場する日上先生と8月1日に初めて会い、3.11を契機に始まる彼のボランティア経験と、彼がそこから学んだことを聞いた時に、すでに直観していたものでした。
その日上先生に誘われ、9月20ー23日の連休、「セイブ・ザ・ヒロシマ(STH)」という「平成26年広島豪雨」による土砂災害を機に結成されたボランティア団体と一緒に輪島でのボランティアに参加しました。
「STH」は、インディーズ系パンクロックの雄であるガイさんが率います。
当初の予定では、被災者やボランティアの人々に広島風お好み焼きをふるまう日上先生のアシスタントをする予定でした。
しかし、一晩かけて21日(土)早朝に輪島に到着する間際に降り出した雨は、数時間のうちに所謂「令和六年能登豪雨」と化し、被災地支援に行って被災してしまいました。
お好み焼きを振舞うどころか、外に出ることさえ命の危険にかかわる状況で、僕らは他県から来たボランティアと一緒に、ボランティア・センター(ボラセン)に避難していました。
昼過ぎに多少雨が弱ってきた頃、ボラセンの近くの幼稚園が浸水し、二階に園児が避難しているらしいという報が入りました。
みんなで行ってみると、園の一階には足首が埋まるほどの泥水が流れ込んでいました。
一時は股下ぐらいまで浸水していたそうです。
僕らはまず、屋内にあったものを全て屋外に出し、それから丸々二日、幼稚園の泥掻きと掃除に明け暮れました。(シン高公式Xに写真が上がってますので是非見てみてください)
もともと元旦の震災以来、開いてるお店が数えるほどしかないうえ、この豪雨で輪島へと通じる道は遮断され、一軒だけ開いていたスーパーには冷凍食品以外の食べ物は全くありませんでした。
夜に向けて再度雨脚が強まり、銃弾を連射されているような音を立てる屋根の下で僕らは、冷凍食品とビールとともに色々な話をしました。
「戦時下で避難している時ってこんな感じなのだろうか」と思いました。
誤解を恐れず言えば、それは楽しい時間でした。
そしてその楽しさこそ、大杉栄の言う「愉快さ」以外の何物でもないことに気づくのは、広島に戻ってしばらくしてからのことでした。
以下が、僕の学者最後の論文のエンディングを飾り、そこで語られる「愉快さ」を求めて大学を辞めることになった大杉の言葉です:
負けることはよく負ける。しかし幾度負けてもその喧嘩の間に感じた愉快さは忘 れることができない。意地をはってみた愉快さだ。自分の力を試してみた愉快さだ。仲間の間の本当の仲間らしい感情の発露をみた愉快さだ。いろんな世間の奴等の敵と味方とがはっきりして世間が見えてくる愉快さだ。そしてまた、そういったいろんな愉快さ の上に、自分等の将来、社会の将来がだんだんとほの見えてくる愉快さだ。自分等の人格の向上するのを見る愉快さだ。

「労働運動理論家賀川豊彦・続」(『労働運動』一次三号(一九二〇年一月)。のち 『正義を求める心』に所収。第六巻) (167-169)(小説18参照→ 

災害支援を通して知り合った新しい仲間と一緒に働いた輪島での数日間はまさに、この大杉の言葉通りのものでした。
そして、災害支援が齎す「そういったいろんな愉快さ」の上に「だんだんとほの見えてくる」「自分等の将来、社会の将来」こそ、「交換様式D」であると確信しました。
 
2.
そこで僕は、ボランティアと柄谷さんの交換様式論の関係をすでに語っている人がいるに違いないとの直観が働きました。
「ボランティア、柄谷行人」でグーグル検索したところ、一発でヒットしました。
大阪大学大学大学院人間科学研究科の教授で渥美公秀(あつみともひで)という人がいます。
渥美さんの「災害ボランティア論の再構築に向けて」という論文の要旨は次の通りです(太字):
本稿は、現代社会における災害ボランティアを柄谷行人の交換様式の歴史的ダイナミックスの中に位置づけ、災害 ボランティア論を再構築していくための展望を得ようとするものである。具体的には、2016年熊本地震の際、災害ボ ランティアセンターでは、筆者が提示してきた秩序化のドライブが席巻し、遊動化のドライブが無効化するかのよう な事態が見られたことに着目し、そのような事態をもたらした現代社会を交換様式のダイナミックスとして捉え、従 来の災害ボランティア論が、既存の交換様式との十全な対峙を行わなかったために、新たな交換様式の到来を招来で きていなかったことを指摘した。災害ボランティア論の再構築のためには、災害ボランティアと現代社会で主流とな っている交換様式との異同を徹底的に追求し、それらの否定から、いかにして新たな交換様式を招来するかという点 へと議論を進める必要があるとの展望を得た。
論文全文のPDFはこちら
この要旨から、かなり柄谷さんのものよく読んでいて、自分の専門(ボランティア集団力学)に活かしていることがうかがえます。
大阪大学人間科学研究科共生学系のHPには、次のような『世界史の構造』の書評を寄稿しています
非常にうまくまとめていると思うので、「私の謎」の最新回とともに、シンギュラリティ高校の全職員必読にしようと思って入ます。
「私の謎」最新回はこちら

「行き先も決めずに始めた「探究」はクーデターだった:私の謎 柄谷行人回想」

上の書評の中で渥美さんは災害ボランティアと交換様式の関係について次のように言っています(太字):
 
…交換様式Dは、世界共和国だ、世界宗教だ、共産主義だと様々に議論された。自分では、災害直後の被災地の状況(災害ユートピアなどと呼ばれる)に近いのではないかと考えていたら、著者がまさにそのことに触れていたりして知的に興奮も高まった。
 
これは『力と交換様式』(2022年)刊行前に書かれたものですから、交換様式Aと理解されるべき「災害直後の被災地の状況(災害ユートピアなどと呼ばれる)」を交換様式Dと見做しているのはいたしかたないでしょう。
勿論、AはDの雛型ですから、決して間違いではないのですが。
渥美さんは、そのDの雛型としてのAを「被災地のリレー」という言葉で、僕にとってはこれ以上ないほど的確に表現しています(太字、シン高公式Xへの投稿より):

行政情報頼みを危惧、人間的触れ合いが要 

「不特定の相手への、返礼を求めない純粋な贈与のネットワークが兆しています。私はこれを「

」と呼びます。」

この「

」が

さんの言う

です

上記Xへのリンクはこちら
上記の『世界史の構造』の書評でも言っているように、渥美さんは1980年代に『探究 I』『探究 II』から柄谷さんのものを本格的に読み出したそうです。
全く僕と一緒です。
その『探究』について(ついに)語り始めたインタビュー「私の謎」最新回で仰っていること、つまり、柄谷さんが「教えるー学ぶ」の関係、一言で言えば教育について言っていたことは、交換様式AないしDの真髄であるという考えはいつも持っていました。
大学を辞めて幼稚園の園長をやりはじめてからは、特に強くなったような気もします。
 
3.
ともかく、日上先生との出会い(8月1日)~大川来訪(8月15日)~柄谷宅来訪(8月19日)~輪島での災害支援・被災(9月20-23日)という一連の流れのおかげで、教育を軸とした僕らの活動も、かなり具体的な方向性が見えてきました。
それは端的に言って、災害ボランティア活動を軸とした教育を通してみんなで「X=[A→D]」の担い手となっていくということです。
ここにややこしいことは微塵もなく、マイクロバスで夜通しかけて日本中の被災地に乗り込んで、日本中からやってくる色んなバックグラウンドを持つ人々と身体を動かして働き、そこから何かをつかんでいくということです。
この災害支援のネットワークの形成には、日本中のライブハウスを巡っているインディーズ系のミュージシャンが大きな役割を担ってきました。
2012年夏、僕ら三人で参加した「サウンド・デモ」に携わっていた人達も沢山います。
だからよく被災地では手作りのロックフェスが開催されています。
僕は以前からうちの高校を、「毎日がフェス」のような学校にしたいと思っていたので打って付けです(村上龍の『69』の影響です)。
南相馬だろうが、米沢だろうが、石川だろうが、熊本だろうが、広島からマイクロバスで学生と大挙押し寄せて、時にはがっつり肉体労働を、またある時にはフェスの準備を。
(ちなみに日上先生はこの連休中も一人で片道9時間かけて輪島まで運転して行って、広島風お好み焼きを連日数百枚づつ焼いてきたそうです)。
そのためにマイクロバスをもう一台購入することも検討中です。
そうして交換様式Aを拡充していこうと思ってます。
 
4.
最後に、この8月から9月にかけての一連の出来事のなかでも、お二人のもとへ訪れたことも重大な意味を持つ点について。
「小説20」でも書いたのですが、ご自宅の居間でくつろいでいる時、柄谷さんはおもむろに僕に次のように言いました:
「遠藤君は広島へ行くべくして行ったな。あそこは世界史と日本史、両方の中心だ。」
交換様式Aと交換様式Dをはっきりとわかつもの。
それは、核の問題、そしてそれと関係しての国連の問題だと僕は思って入ます。
その問題が解決されてこそのAからDへの「命がけの飛躍」であるとも。
それが「向こうからやって来る」予感がしています。
被団協のノーベル平和賞受賞がその前兆であるかどうかは分かりませんが。
僕が最近の一連の流れをもとに直観するのは、この「命がけの飛躍」を招き寄せるものこそ、「霊的な力」であるということです。
端的に言えば、「死者による導き」。
その死者とは誰のことであるかは言うまでもないでしょう。
 
               中上健次
 
彼の残した言葉が、「屍の街」としての広島のルポルタージュである『この世界の片隅で』(1965年)を介して、僕らをXへと導くと直観しています。
ここからが『続・海神』としての『(小説)Xへの道、あるいはシン高物語』の本番です。
(続く)
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