eSOM (イゾーム)
Dへの道、あるいはシン高と幸和の物語
2025.05.09
(小説)「Xへの道」、あるいはシン高物語(18):Team大川が教えてくれたこと
14歳の君(僕)へ、そしてシン高のみんなへ
1.
明日は8月15日(木)。
終戦記念日だ。
その日僕(君)は、「チーム大川」とその代表である只野哲也さんに会いに、宮城県石巻市大川地区に行く。(「チーム大川」と只野さんに関しては小説12を参照のこと)
それを前にして今日14日(水)中にやらなければならないことがある。
『この世界の片隅で』所収の「沖縄の被爆者たち」に関するレポートを仕上げること。
被爆伝承者研修での報告は24日(土)だから、まだ時間はある。
けれど、この報告の準備と、日上先生、Team大川との出会いが重なったことで、長年の謎を解く糸口らしきものが見つかった。
それを忘れないうちに書き留めておきたい。
その「長年の謎」が、「「てぃんさぐぬ花」の花の謎」(小説17参照のこと)を解く鍵を握っているような気がする。
2.
僕の長年の謎とは、僕の恩師であり親友(だと僕は勝手に思っている人物)である冨山一郎・同志社大学グローバル・スタティーズ研究科教授に関係することだ。
ちょうど30年前に出会って以来ずっと「いっちゃん」と呼んできたので、この小説の中でも「いっちゃん」でいかせてもらう。
「いっちゃん」は沖縄研究者として世界的にその名を轟かす。
彼から本当に色々なことを学んだ。
彼がいなかったら今の僕はない。
そんな彼に尋ねても決して答えてくれない問いが一つだけある。
「なぜ沖縄なのか?」
今までに何度かこの問いを発した。
その度に黙りこくるか、黙っているうちに寝てしまうかだった(そうしたヘビーな話をするのは必ず酒の席なので)。
勿論、自分でも仮説を立てた。
けれどそのどれもが、本人に訊くまでもなく、的を得たものではないことは自明だった。
しかしついにこの謎を解く糸口がつかめた。
3.
「その糸口」とは、僕が明日、只野さんに会いに行くきっかけになった日上先生のメッセージ(小説12所収)の次の箇所と関係している:
たぶん哲也くんだけでなく、Team大川のメンバーみんなが、それぞれの悲しみやつらさを今も抱えながら、それでもなんとか一歩前進するために、苦闘している段階にあるものと思います。
そうした彼らの地道な取り組み、それを通して成長する姿を、時々そばで見せてもらいながら、ボクは勉強をさせてもらっています。そして、何かボクにもできることがあればやらせてもらおうと、損得勘定抜きで、そっと寄り添い、活動をさせてもらっています。((小説)「Xへの道」、あるいはシン高物語(12):8.12.2024震災遺構大川小学校「おかえりプロジェクト」より抜粋)
4
何が日上先生を被災地へと向かわせるのか?
なぜ僕にそれを勧めるのか?
昨日、石川から広島に戻ったばかりの彼から、次のようなメッセージが届いた:
無事、広島に到着しました。
輪島市では、地震の破壊力の凄まじさ、珠洲市では地震に加えて津波の恐ろしさを改めて感じました。
輪島市の火災現場は、ほぼ片付けが終わっていましたが、その周辺の倒壊家屋の片付けは、また進んでいないようでした。古い住宅はほぼ倒壊、一階部分がつぶれていました。新しい家は倒壊は免れたいるものの、赤紙(危険)がはられている家も多くありました。
珠洲市では、蛸島など海側の砂地で地盤のゆるい地域は全滅という感じでした。公費解体が少しずつ進んでいましたが、まだまだ2割程度でしょうか。
珠洲市の特徴は宝立町の津波。2.7メートルの津波が、地震後1分で到達したとのことでした。東日本大震災と比較すると10分の1の高さです。しかし、宝立町の海岸には防潮堤がないので、そのまま海岸近くの地域が津波の影響を受けていました。
宝立町では、能登のキリコ祭りを代表する勇壮な祭りが海岸で行われるということで、祭りの障害になる防潮堤は設けていなかったそうです。今後も伝統を守るため防潮堤を設置しないか、それとも津波から町を守るために防波堤を作るか、議論になるでしょうか。
津波に襲われた宝立町では、海側に面した多くの家屋が基礎だけが残った状態、2列目3列目の家々は1階部分が浸水。それらの家に瓦礫や車などが押し寄せている状態でした。規模は異なりますが、東日本大震災で見た風景とよく似ていました。
現地で、仮設住宅を何ヶ所か見ました。珠洲市で見た仮設住宅はわずか7世帯のものもありました。聞いてみると、広い場所にたくさんの仮設住宅を建てるのではなく、できるだけ住んでいる地域に近い場所に建設するため、小規模の仮設住宅が点在しているとのことでした。地域コミュニティを守る工夫がなされています。
東日本大震災の被災地で訪問させてもらった仮設住宅は、数十世帯から、中には100世帯を超える大規模なものもあり、地域コミュニティの維持が難しいとの声を聞いていましたが、そういう経験が能登で生かされているのでしょう。
今回、民間のボランティアセンター、2か所でお好み焼きを焼かせてもらいました。輪島市では被災者の方々に事前に案内してもらっていたので、時間になるとあっという間に長い行列ができて、ボランティアのみなさんも合わせて160食提供しました。
珠洲市では、当初の予定通りにボランティアの方々中心に180食を配布、近所の避難所や仮設住宅に住んでおられる高齢者のみなさんにも配布してもらいました。広島のお好み焼は、能登では珍しいようで、みなさんには喜んで食べていただくことができました。
民間ボラセンを訪れて驚いたのは、コンテナハウス、プレハブを建てたり、空き家を利用したりして、宿泊施設も備えていることです。いずれも20人程度を収容できるスペースがありました。
また、人や機材を運ぶ車両が充実していて、広範囲に活動できるということ、さらに、ユンボはもちろん、解体専用車両、高所作業車などもありました。このような機材をフルに活用して、さまざまなボランティアのニーズ対応していました。
民間ボランティアの中心メンバーは、元日の震災後、翌日から1月4日には、輪島市や珠洲市に入っています。倒木で塞がれた道があれば、木を切り崩しながら進むこともあったそうです。
珠洲市の場合は、2023年の地震の時も活動しているので、拠点作りはスムースに進んだそうです。そうした継続した取り組みも大切だということがわかりました。
SNSでは、震災直後に、ボランティアは行くなとか、ある議員が能登に入ったことバッシングするとか、ボランティアに対して否定的な投稿が多くありました。しかし、実際はこのような専門知識や機材を持った民間ボランティアが震災直後から被災地に入り、拠点をつくり、被災した人々に寄り添いながら活動をしています。
そして、議員さんも現地に入り、さまざまな場所を訪れて、さまざまな作業を手伝いながら、直接、被災者やボランティア担当者から要望を聞いて、発信したり、行政に伝えたりしています。実際に現地に行って、自分の目で見たり、体験したりしてみないと、わからないことがたくさんあります。
よく言われることですが、「できる時に、できる範囲で、できる事をする」この基本原則を守りながら、被災地域の人々に寄り添いながらボランティア活動を行えば、その目的を見失うことはないと思います。
現時点では高速道路が無料期間が、9月30日となっているので、それまで残り1ヶ月半、ボクももう一度、能登を訪問して、活動したいと思っています。
5.
この日上先生からのメッセージを読んで僕は、1920年に大杉栄という人によって書かれた次の文章を思い出した。
負けることはよく負ける。しかし幾度負けてもその喧嘩の間に感じた愉快さは忘 れることができない。意地をはってみた愉快さだ。自分の力を試してみた愉快さだ。仲 間の間の本当の仲間らしい感情の発露をみた愉快さだ。いろんな世間の奴等の敵と味方 とがはっきりして世間が見えてくる愉快さだ。そしてまた、そういったいろんな愉快さ の上に、自分等の将来、社会の将来がだんだんとほの見えてくる愉快さだ。自分等の人 格の向上するのを見る愉快さだ。
で僕は、たいがいの労働者とともに、この喧嘩は自分等の人格の練磨、自己教育 だと感じている。
‥労働者の努めなければならぬのは、その解放の事業の平和か否かにあるのでは ない。それは労働者の知ったことじゃない。労働者はただひたすらにその人格的運動、 自己教育的運動の完成に邁進すればいいのだ。そしてこの自己教育的運動が、同時にま た、自然に賀川君の言うがごとき社会教育的運動になるのである。
「労働運動理論家賀川豊彦・続」(『労働運動』一次三号(一九二〇年一月)。のち 『正義を求める心』に所収。第六巻) (167-169)
ここで大杉の言う「喧嘩」というのは、「資本家」に対する「労働者」のストライキのことだ。
「労働者」を「人間」、「資本家」を「幸せな暮らしを著しく損なうもの(災害、戦争)」とし、「喧嘩」を「人間」と「幸せを著しく損なうもの」との抗争とみなしてみよう。
この「喧嘩」という名の実践を通して人は様々なことを学ぶ:
「仲 間の間の本当の仲間らしい感情の発露をみ」ること。
「いろんな世間の奴等の敵と味方 とがはっきりして世間が見えてくる」こと。
「自分等の人 格の向上するのを見る」こと、等々。
一言で言えば、日上先生の言う「地道な取り組み、それを通して成長する」ということだ。
これらの「学ぶ」は「愉快さ(喜び、楽しさ)」を伴う。
そしてこうした、「愉快さ」を伴う「学び」は、「そういったいろんな愉快さ の上に、自分等の将来、社会の将来がだんだんとほの見えてくる愉快さ」といった、さらなる「学び」と「愉快さ」を齎す。
そしてその上に、「未来(自分等の将来、社会の将来)を拓く」という創造=実践が展開される。
このような、「学び」、「創造」といった「実践」を伴う「愉快さ(喜び、楽しさ)」が、哲学的にはactive joy(能動的情動)と言われるものなのだろう。
6.
ここからは8月17日、土曜日に書いている。
予定通り15日(木)、大川に行き、朝から晩まで哲也さんと一緒に過ごした。
哲也さんの言動はactive joyに貫かれていた。
少なくとも僕にはそう感じた。
震災当時から哲也さんら大川の子どもたちをサポートしてきた「Team大川未来を拓くネットワーク」顧問の佐藤秀明さん、そして佐藤さんごとTeam大川をサポートしてきた奥様の英子さんも同様だった。
日上先生が、Team大川の「そうした彼らの地道な取り組み、それを通して成長する姿を、時々そばで見せてもらいながら、ボクは勉強をさせてもらってい」ると言う。
そう言う時に彼が何を学ばせてもらっているのか?
active joyが「導火線」(佐野元春)ないし「心の燃料」(HIPPY)となり、「学び」や、人の成長や、社会の創造という実践が拡充(大杉)していくのだということ。
日上先生はそうしたことを、Team大川の「地道な取り組み」、そして「それを通して成長する姿を、時々そばで見せてもらいながら、…勉強をさせてもらってい」るのだろう。
この「学び(教育)」の内容を「active joyの運動」と呼ぶことにしよう。
こうした「active joyの運動」は、「Team大川のメンバーみんなが[持つ]、それぞれの悲しみやつらさ」と表裏をなしている。
そしてこうした「悲しみやつらさ」という消極的情動(passive affects)をひっくるめての「active joyの運動」が、長原豊がアントニオ・ネグリの内に、そしてシン高のスペシャル・アドバイザーである僕の恩師ハリー・ハルトュー二アンが、「アルメニア人虐殺」(1915-23)を生き延びた彼の母親に、さらには僕が、米国内で激しい人種差別を経験したハリーの内に見た「悲しみの楽観主義」なのだろう。
7.
実は上の大杉の言葉が、僕(君)が学者(思想史家)として書いた最後の論文を締めくくった。
そして日本に戻り、仲間とシン高を作り始めた。
その最後の論文こそ、シン高の出発点であり、その時で点すでに、上の「大杉の言葉」が一番大切になるだろうと直観していた。
学者として最後の論文はこちら:
↓
その証拠に、シン高HP「校長からのメッセージ」の中で「シン高のエッセンス」として語られていることは、「大杉の言葉」が色濃く反映されている:
「そんなふうにして始まったシン高には、私が米国で経験した「学校の素晴らしさ、楽しさ」のエッセンスを全て詰め込みたいと思っています。
そのエッセンスとは「好きな友や先生と、楽しくワクワク感一杯で学んでいるうちに、いつの間にか明るい未来が開けてくる」ということです。」
この引用を含む「校長からのメッセージ」はこちら
↓
ここで言う「ワクワク感」とは、大杉の言う「愉快さ」、つまりactive joy以外の何物でもない。
メッセージを書いた時は意識していなかったが、それだけ「大杉の言葉」は僕(君)の血肉になっているということなのだろう。
そしてその言葉の意味の全貌(哲学的意味)を、「Team 大川未来を拓くネットワーク」から学んだ。
そして今僕(君)は、その学んだこと通りに行動していこうとしている。
論文を書き上げ、大学を飛び出す間際の直観は正しかったわけだ。
つまりこの一連の流れは、西田幾多郎の「行為的直観」の正しさを証明している。
8.
「Team大川」から学んだことはそれだけではない。
この「学び」得るために日上先生は「何かボクにもできることがあればやらせてもらおうと、損得勘定抜きで、そっと寄り添い、活動をさせてもらっています」と言う。
この「損得勘定抜きの交換」こそ、シン高のスペシャル・アドバイザー中のスペシャル・アドバイザーである哲学者・柄谷行人氏の言う「交換様式A(以後、「A」)」だと僕は思う。
柄谷さんは僕にとってもシン高にとっても最も重要な人物だ。
どのぐらい重要かは、この連載小説が進むにつれ、徐々に明らかになっていくだろう。
彼は「てぃんさぐぬ花」の謎とも大いに関係している。
ともかく、そんな柄谷さんの言う「A」が社会(=世界)の隅々にまで浸透するようになった時、それは「(交換様式)D」となる。
僕は、そのような社会=世界こそが「X」と呼ばれるべきものと理解している。
このXは、Team大川が拓こうとしている「未来」でもなければならない。
なぜならシン高はXを、Team大川と共に創っていくのだから。
シン高とTeam大川の関係がXの一部ならば、その関係自体が「A」でなければならない。
Team大川はシン高に、「Xの創造とはactive joyの運動である」という最も大切なことを教えてくれた。
では僕らシン高は、「Team大川が教えてくれること」と何を交換するのか?
言うまでもなくそれは、彼らが彼らなりのやり方で「未来=X」を創造していく上で必要なことのうちで、僕らシン高が出来ることをしていくことに他ならない。
15日(木)の丸一日に及ぶ会談ですでに、幾つかシン高が出来そうなことが浮上した。
9.
この「シン高物語18」は、「なぜいっちゃんは沖縄に向かうのか?」という問いから始まった。
その問いの答えの糸口を、『この世界の片隅で』の中の「沖縄の被爆者たち」を通して論ずる前に、石巻に行った。
そして石巻でTeam大川の仲間になることで、その「糸口」が如何なるものかがより鮮明になった。
「いっちゃん」は沖縄から自分にとって必要なものを学んでいる。
その「必要なもの」とは、Xを創る上で必要なものだ。
言うまでもなくXには、大川同様、沖縄も含まれる。
含まれているどころか、その歴史から言って、Xの中心の一つとならなければならない。
そして僕は大川から、「Xの創り方」こそが「active joyの運動」であることを学んだ。
「いっちゃん」は沖縄からどんなことを学んできたのだろう?
それを知ることは、僕らシン高をTeam大川と共に、よりエキサイティングな場所にすることだろう。
楽しみだ。
(続く)