シンギュラリティ高等学校 SHINGULARITY HIGH School

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Dへの道、あるいはシン高と幸和の物語

2025.05.08
(小説)「Xへの道」、あるいはシン高物語(14):03.11.2011、福島~to U(by Bank Band with Salyu)

(「シン高物語(13)」からの続き)
震災後、しばらくの間日本への電話は通じませんでした。ようやく母と話すことが出来ると、彼女は、太平洋戦争へ行き、戦後農協のリーダー的存在であった叔父の家ハルに寄せてもらっていたとのことでした。
その後しばらくしてから、弟はUSTREAMでラジオ福島の放送を聴けることを知りました。同局は通常の番組を全てキャンセルし、二四時間体制で震災関係の情報を流しました。聴き始めて数日すると、メールとともに曲のリクエストに答えるということだったので、早速弟は次のようなメールを書いて送りました:
数日前からUSTREAMで聞きていて、メールをしよう、しようと思っていました。曲のリクエストとともに、と思っていたので、ちょうどよかったです。私は小学校から高校を卒業するまで会津の河東町で暮らしていました。その後アメリカに渡り、数年前からカナダの南西端、バンクーバー島のビクトリアという街で暮らしています。
河東には今も母が一人で暮らしています。非常に心配ですが、地元の人達に助けられながらなんとかやっているようです。私のことも小さい頃からよくしてくれた地元のみんなのことを考えると、自然と目に涙が溢れます。
母を助けてくれている人達への感謝を歌でと思ったのですが、今回は申し訳ないのですが別な人達に。昨日ラジオを聴いていると、被災地の高校生の受け入れ先についてのニュースが流れました。その時ようやく、今はちょうど卒業のシーズンであることを思い出しました。地震や津波で亡くなられた方、そして今避難所に非難されている方の中にも、この春に小学校や中学、そして高校、大学を卒業という方々が沢山含まれていることでしょう。これから無限の未来が広がっていたはず命が、今回の震災でどれほど絶たれたのだろうかと思うと、思考が停止し、ただただ目から涙が滝のように流れるばかりです。
亡くなった「卒業生」、そして今、避難所でクタクタになりながら必死で未来に向かって生きようとしている「卒業生」に、Bank Band with Salyuのto Uを贈りたいと思います。私もこの曲を聴きながら、どうしたら福島の、そして会津のみんなに自分らしい恩返しが出来るのかを考え、そして早速動きだそうと思います。
カツヒコ・マリアノ・エンドウ
池の水が鏡みたいに空の蒼の色を真似てる
公園に住む水鳥がそれに命を与える
光と影と表と裏
矛盾も無く寄り添ってるよ
私達がこんな風であれたら…
愛 愛 本当の意味は分からないけど
誰かを通して 何かを通して 想いは繋がっていくのでしょう
遠くにいるあなたに 今言えるのはそれだけ
悲しい昨日が 涙の向こうで いつか微笑みに変わったら
人を好きに もっと好きになれるから
頑張らなくてもいいよ
瓦礫の街のきれいな花 健気に咲くその一輪を
「枯らす事なく育てていける」と誰が言い切れる?
それでもこの小さな祈りを 空に向けて放ってみようよ
風船のように 色とりどりの祈り
愛 愛 それは強くて だけど脆くて
また争いが 自然の猛威が 安らげる場所を奪って
眠れずにいるあなたに 言葉などただ虚しく
沈んだ希望が 崩れた夢が いつの日か過去に変わったら
今を好きに もっと好きになれるから
あわてなくてもいいよ
愛 愛 本当の意味は分からない
愛 愛 だけど強くて
雨の匂いも 風の匂いも あの頃とは違ってるけど
この胸に住むあなたは 今でも教えてくれる
悲しい昨日が 涙の向こうで いつか微笑みに変わったら
人を好きに もっと好きになれるから 頑張らなくてもいいよ
今を好きに もっと好きになれるから あわてなくてもいいよ
 
この曲の発売は、二〇〇七年七月一九日。ちょうどその頃弟はパリに滞在していました。彼はその年、一〇月第一週にもパリを訪れています。
震災から三年以上前に作られた曲なのに、それはまるで震災後に、そう、まさにこの曲がラジオ福島とU-Streamを通して地球上を覆った頃に急遽作られたかのようです。弟はこの曲を震災の一年前ぐらいからよく聴いていました。何か特別なものを感じていたようです。まるで、震災と、それが自分自身のなかに喚起する感情を予感しているかのように。
その歌詞は、今、自分が伝えたい言葉そのもの。そう思い弟はこの曲をリクエストしました。その言葉を伝えるのによく適した歌声とバックの音だとも。「自然の猛威」が、否、厳密に言えば、コンピューター上のその映像が、彼の身体のなかにこの歌詞に表現されるような<愛>という感情を喚起し、それが彼に「私もこの曲を聴きながら、どうしたら福島の、そして会津のみんなに自分らしい恩返しが出来るのかを考え、そして早速動きだそうと思います」と書かせました。
このメールを読んだ女性のアナウンサーは、この最後の部分を別な言葉に換えました。弟はそれに憤るどころか、逆に、換えてくれてよかった、さすがだ、と思いました。一言で言えば「やぼ」。
ラジオ局の人々にもうひとつ助けられたことがあります。弟はアナウンサーがメールを読んでいるときにこの歌詞を読み返しながら、まずい、と思いました。彼は、「誰かを通して」から始まる一番目のサビの部分が、その時の自分の心情と重なると思いこの曲をリクエストしました。その時は彼はまだ、二番の歌詞にあまり注意を払っていませんでした。曲がかかりだしてからその部分を読んだ弟は、早すぎる、と思いました。被災者に向けた言葉として。このことはまた、未来を見越してこの曲が作られた可能性を示しているとも言えますが。
ラジオ局側も同じことを思ったのでしょうか。二番に入るのに合わせて曲の音は絞られ、それに重ねてアナウンサーがメールの後半部分を紹介し始めました。まさに三〇年来のリスナーとラジオ局の間の「あ・うん」の呼吸とでも申しましょうか。
二〇一一年五月、弟は久しぶりにNYCを訪れました。二〇〇七年以来でした。
滞在中のある日の夕方、セントラル・パークの南端からダコタ・アパートまで歩きました。彼は当初からそこに行こうと決めていたようです。
そこは、一九八六年八月下旬、弟が初めてNYCを訪れた際に行った場所です。彼は拙い英語でアパート入り口にいた守衛に、それから五年半前ほど前、レノンがどこで撃たれたのか尋ねました。守衛は何も言わず弟の足元を指差しました。それから約四半世紀後、弟はストロベリー・フィールズのベンチに座り、レノンの部屋の辺りを眺めながら、その時のことを思い出していました。その初めてのNYC訪問時に彼は、WTCにも登っています。
 
とまあ、ここまでが2011年版「シン高物語」からの引用だ。
久しぶりに「to U」の歌詞を読み返すと、言葉とて違えど、それが、破壊から今日までの広島に捧げられたHIPPYの「きんさいや」と同じ「魂」を歌っていることが分かる:
荒れ果てたこの地に咲いた花
枯れないように守り育てよう
そして誰かの明日のために
情熱燃やして 広島から愛を込めて
(HIPPY「きんさいや」より)
 
「to U」とともにここに、シン高のHeart & Soulである「ジョンの魂」が表現されている。
こうして「誰かを通して 何かを通して 想いは繋がっていくのでしょう」
だからこそ僕(君)は、特に8.6.1945から今日に至る広島への想いを歌った「きんさいや」に心を打たれ、HIPPYさん本人に「シン高の校歌は「きんさいや」のイメージで、同じメッセージを」とお願いしたのだと今気づきました。
会津から石巻までの4時間の道中、この曲を聞きながら、「ジョンの魂」とともに大川小学校「おかえりプロジェクト」に向かいます。
瀬戸内、長崎、東北から始まるプロジェクトeSOMの実現に向けて。
(続く)
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