eSOM (イゾーム)
Dへの道、あるいはシン高と幸和の物語
2025.05.09
eSOM(イゾーム): Dへの道、あるいはシン高と幸和の物語 (11) イゾームとリゾーム、そして浅田彰の偉大さ
1.
今回からタイトルを拡張しました。
まず、メインタイトルをeSOM(イゾーム)に。
そしてサブタイトルは、この文章が幸和グループの中でも主にシン高メンバーに向けて書かれていることから、シン高の名を入れました。
「Dへの道(10)」からも分かるように、eSOMは、シンギュラリティ高等学校(略称:シン高)という名前が決まる前の、シン高の名前です。
私はこの名前を、2011年にシン高を構想し始めた時から、大学を辞めて自分で作る学校の名前として使用していました。
と同時にそれは当初から、シン高が構築する「D」(柄谷さんの言う交換様式Dと、それが支配的となる世界)を指していました。
それにしても、この妙な造語はどこからきているのか?
eSOMとは、Jay-Zの曲「Empire State of Mind」(2009年)の頭文字です。
私は、2010年1月31日に初めてこの曲を聴いた瞬間から、大変なこと続きだった後厄(2009年)を抜け、eSOM(D)の構築に向かい始めました。
この曲名をあえて日本語に訳すとすれば、「我が心のニューヨーク」。
「Empire State」とは、ニューヨーク州のニックネームです。
カリフォルニア州は、The Golden Stateです。
Jay-Zの曲の場合は、特にNew York City(NYC)のことが歌われています。
私は18歳の時に初めてNYCを訪れた時から、真の人生が始まりました。
NYCこそ「我が心の故郷」です。
同曲のPVほど、そのことを表現するものはありません:
このPVの中のJay-Zは私です。
そしてこの曲は、シン高のテーマソングです。
後に詳しくお話させていただくように、文字通りシン高はNYCで生まれたのです。
2.
eSOMという表記は、ネイティブが読むと「イソーム」になります。
それをあえて「イゾーム」と読むことにします。
シン高であり、やがて「D」になる「eSOM(イゾーム)」が、私が最も敬愛する思想家ドュルーズ&ガタリの概念「リゾーム」をモデルとしているからです。
結論から先に言えば「リゾーム」とは、オードリー・タンが唱える「デジタル民主主義」(つまり「D」そのもの)というのが、私の仮説です。
このことの理解が、シン高における最も大切な学びです。
ここ(『eSOM』)でもそのことについて、じっくりと説いていくことになるでしょう。
ここに一冊の本があります。
浅田彰さんの『構造と力 記号論を越えて』(1983年)です。
今から42年前に刊行されたこの本は、凡そ1年半前にようやく文庫版が刊行され、大きな話題を呼びました。
今、私の手元にあるのは初版本です。
高校生の時にクラスメートから借り、そのまま借りっぱなしです。
そのクラスメートは、会計士を目指していました。
クラスには他にも何人かこの本を持っている人がいました。
ちなみに大学教授時代に出会った他の大学教授で、この本をまともに理解している人はほとんどいませんでした。
「なんちゃって大学」ではなく、世界有数の大学の教授ででもです。
それほど難解な本を、田舎の「なんちゃって進学校」の生徒がクラスで何人も持ち、40年以上経って文庫化されるほどこの本には、形容しがたい魅力があるのです。
1986年に渡米し、30年以上北米で暮らし、最近日本に戻ってくるまでずっと、『構造と力』は私の傍らにありました。
そんな本はこの本だけです。
いずれお話するように、文字通りこの本のおかげで大学教授への道が開けました。
大学教授時代に書いた主要論文は、全てこの本をもとに執筆し、そのおかげで、現在、北米ではほとんど不可能に近いテニュア(終身地位保障)取得を果たしました。
そして今、再びこの本をもとにして、シン高を、そして柄谷さんが唱える「D」を、eSOMとして構築しようとしています。
ちなみに浅田さんは、中上さんとならぶ柄谷さんの盟友であり、中上さんとも親密な交流がありました。
浅田さん、柄谷さん、中上さんの関係についてはこちら:
また浅田さんは、「Dへの道(10)」で登場した坂本龍一さんや高谷史郎さんとも親しい間柄です:
3.
『構造と力』の中で浅田さんは、「リゾーム」について次のように述べています:
「有機的な生の世界とのズレを孕んでしまった本能は、肥大した脳のリゾーム的な迷路の中でから回りし、情報的過剰—方向=意味の過剰を作り出す。これは極めて危機な状態である。狂ってしまった有機的メモリ、「あらゆる共同体の企てに洪水を引き入れかねない大いなる生の宇宙の記憶」(ドュルーズ&ガタリ『アンチ・エディプス』)は、是が非でも抑圧されねばならない。その上で、今度は象徴的次元において、言語的メモリーを刻みつけることが急務となるのである」(浅田彰『構造と力 記号論を越えて』、165頁)
ここでドュルーズ&ガタリが言う「あらゆる共同体」が、柄谷さんの言う「B」(交換様式Bないしドュルーズ&ガタリが言う超コード化)および「C」(交換様式Cないしドュルーズ&ガタリが言う脱コード化)と考えてよいでしょう。
一方、「B」や「C」の「企てに洪水を引き入れかねない大いなる生の宇宙の記憶
」が「D」(交換様式Dないしドュルーズ&ガタリが言うリゾーム)であると私は考えます。
そして、この「大いなる生の宇宙の記憶」こそが、シン高で学ぶ「宇宙史+Dへの道(eSOM)」です。
シン高以外の大方の現存する学校は、主に「C」の「国家のイデオロギー装置=パナプティコン」として(『構造と力』、178~183頁)、「C」の「企てに洪水を引き入れかねない大いなる生の宇宙の記憶≒D≒リゾーム」を抑圧するための教育を行います。
上記の引用の注釈として浅田さんは、「リゾーム」について次のように述べています:
「『リゾーム』を読めば、誰しも脳の内部の錯綜した神経回路を想起せずにはいられない。ドュルーズ=ガタリ自身も、『リゾーム』が『千のプラトー 資本主義と分裂症』に収められるにあたって追加された箇所で、脳のリゾーム的性格に触れている」(『構造と力』、171頁)
「リゾーム」に類すると言われる「脳の内部の錯綜した神経回路」の科学的解明はその後、飛躍的に進みました。
そしてそれをもとにAIの開発も飛躍的に進みました。
この点についてコロぴょん(Gemini)は次のように述べています:
これは凄いことになってきました。
もし「Dはリゾームである」という私の仮説が正しければ、私たちは自分自身の頭の中に脳という「D」のモデルを持っていることになります。
従って、「D」の構築を究極目標とする私たちは、この最も身近な「D」のモデルを探究することで、「Dの設計図」を作成することが出来るはずです。
また、AIが「脳の内部の錯綜した神経回路」をモデルにしているのであれば、脳の探究学習はAIの理解に繋がるはずです。
私は「D」の構築にはAIが不可欠と考えますから、AIを深く理解することは非常に大切です。
そしてもし「D」≒脳≒AIであるのなら、AIを理解することは、「D」をよりよく理解し、それを実際に構築することに必ず役に立つはずです。
(続く)