シンギュラリティ高等学校 SHINGULARITY HIGH School

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Dへの道、あるいはシン高と幸和の物語

2025.05.08
(小説)「Xへの道」、あるいはシン高物語(13):09.11.2001、ニューヨーク・シティ

14歳の君(僕)へ、そしてシン高のみんなへ
HPに掲載されている「校長からのメッセージ」で僕(君)は、次のように言っている:
2011年、私は当時務めていた大学で、北米で教授職を得たものなら誰もが目指すテニュア(終身在職権)を取得しました。 同年3月、故郷の福島を東日本大震災が襲いました。 卒業式シーズンでした。 インターネットから流れる地元のラジオ放送が、亡くなった方々の中には、卒業を間近に控えた人も大勢含まれていたことを伝えました。 渡米する前、良く聴いていたラジオ局でした。 それを聞いた私は、取得したテニュアを捨て、30年ぶりに日本に戻って学校を作ることを決めました。
2011年に「取得したテニュアを捨て、30年ぶりに日本に戻って学校を作ることを決め」た時に僕(君)は、この小説(風学校案内)である「「Xへの道」、あるいはシン高物語」を書き出す。
当時はそんなタイトルじゃなかったけれど、その頃から、学校を作ってその「教育目標」が達成するまでの道のりの記録を、中上健次さんの短編「海神」の続編(「続・海神」)として書こうというアイデアはあった。
その「教育目標」とは言うまでもなく、プロジェクトeSOM(X)の実現だ。
まだそれが何かは説明していないけれど。
いずれにせよシン高は、eSOMを実現する人材の育成だ。
今(2024年)から13年前に書いた「シン高物語」の以下の部分は、3.11が起きた時の君(僕)の様子だ。
この世に生を得なかった兄が、弟である僕の様子を書くという、相変わらずややこしい形をとっている。
ともかくそれは、今14歳の君(僕)がいる時間(1981年)から20年後、2024年に14歳の人が生まれた19年前の2001年9月11日に、NYCで起きた自爆テロ(9.11)の話から始まる。
広島への原爆投下に次ぐ、君(僕)の故郷の二番目の破壊だ。
君(僕)はそこにいたんだ。
だから、今となってはなかなかお目にかかれない貴重な記録になっていると思う。
以下は、2011年版「「Xへの道」、あるいはシン高物語」」だ:
 
3.11が起きたのは、日本時間で午後二時四六分。ヴィクトリアは、一〇日木曜午後九時四六分。一週間の授業を終える木曜日の午後以降は、弟が一番リラックス出来る時間。大概比較的早い時間から酒を飲みだし、ひとしきり飲み食いしたあと眠りに落ち、辺りが寝静まったころに目を覚まします。
その日もそうだったのではないかと思います。弟はFBを通して何が起きたかを知りました(彼はその頃はまだFBをやってました)。U-STREAMを通して日本のテレビのニュースを特別に見ることが出来ました。コンピューターの画面のなかで津波が街を荒々しく掻き消していました。それは現実に起きたことのはずなのに、映画でしか見ることのないはずの光景でした。知らぬ間に涙が滝のように溢れ出し、しまいには声を出して泣いていました。
あの時もそうでした。二〇〇一年九月一一日。
その時、弟は、NYCから車で北西に一時間半ほど行ったところにあるニューパルツという村にいました。そこにある大学で非常勤講師をしていました。テニュア・トラックの職を取るために、教える経験があったほうがいいと指導教官であるハリーその他に助言されたからです。彼は一九九六年秋から、NYU歴史学科及び東アジア学科の博士課程に在籍していました。
月曜早朝のバスでニューパルツに向かい、大学近くに間借りしていた部屋に滞在しながら、木曜昼までに三教科六クラス教えその午後にNYCに戻り、休む間もなく次の月曜早朝までに次週の授業の準備をするという生活は、これまでの労働のなかで最も過酷なものでした。そのうえ、そんななかでさえ時間を見つけて博士論文を書こうとしていたのですから。
その日、弟は、朝の授業を終え、午前一〇時過ぎに大学近くのダイナーに入りました。店の隅の天井近くにあるテレビの音は消してあり、朝食のピークを過ぎた店内は静かでした。
朝食とコーヒーを注文し終えた弟はテレビに目を向けました。そこには、飛行機がWTCに激突する瞬間の映像が映し出されていました。繰り返し繰り返し。すでに授業を一つ教え終わっていたとはいえ、まだ多少寝ぼけていた彼は、なぜこの新作映画か何かのワンシーンだけ何度も流れてるのだろうとぼんやりと思ってました。コーヒーを運んできたサーバーに「これ何?」と尋ねると、彼女は「知らないの?さっき起きたのよ」と答えました。
その日の午後の授業は全てキャンセルされました。オフィスの窓の外では、秋空の下、ヒッピー風の学生数名が太鼓を叩いていました。確か翌日も終日休講だったはずです。
ちょうどこの日まで、姉妹都市である岡山のある町からの使節団がニューパルツに滞在していました。テロ発生時、彼らはJFKにいて、日本行きの飛行機に乗ろうとしていました。事件後、彼らは一度ニューパルツに戻ることにしました。NYCは戒厳令下にあり入れなかったので、彼らはハドソン川の反対側を北上し、その日の夜にはなんとか帰ってくることが出来ました。
彼らは何組かに分かれてそれぞれのホームステイ先に滞在しました。弟が部屋を間借りしていた家にも何人かやってきました。本格的にバンドをやっているというそのうちの一人と弟は意気投合し、テラスでビールを飲みながら遅くまで話し込んでいました。それはまるで、戦時中、なんとか空襲から逃れた者達が、そこからさほど遠くない避難場所で、興奮冷めやらぬまま互いを慰めあってるかのようでした。否、実際にそうだったのです。
十四日木曜の午後にはNYCに戻ることが出来ました。四二丁目八番街に位置するポート・オーソリティのなかは、一見以前と変わりありませんでした。しかし弟は、バスから降り立ったときすでに、言いようのない違和感を感じていました。まるでマトリックスのプログラムが書き換えられたときのような。
外は戦場でした。紛れもなく。当時三四歳の弟が一九歳のときから見慣れた風景は、煤けたオレンジ色に染まり、埃と臭気が息を詰まらせました。上空ではヘリコプターがけたたましい音を立てていました。戦闘機も飛んでいたかもしれません。全てが夢のようでした。
もし会津が弟の故郷というのであれば、NYCもそうであると言わねばなりません。それほど彼はこの街を愛していました。そこが攻撃され、その後もう一つの故郷が被災しました。
二つある故郷が、両方とも教科書に太字で載るレベルの事件によって破壊されました。弟は、これは偶然は偶然でも、単なる偶然ではないのではないかと考え始めました。偶然、大きな事件に巻き込まれ続ける『ダイハード』のジョン・マクレーンのようだとも。
(続く)
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